化学科の歴史(令和元年12月末日現在)
名大化学科 草創期
13名+9名 -化学科創設へ-
名古屋大学理学部化学教室の歴史は1942年4月1日に開設された3講座から始まりました。当初の職員総数はわずか13名。初代教授として柴田雄次、菅原健、佐野保、助教授として山崎一雄・江上不二夫、助手は毛利駿・宮原豊、事務職員および研究補助員計5名、ガラス細工係石山利男でした。はじめて学生の募集をかけたところ、定員15名のところ9名集まり、彼らが名古屋大学理学部化学科第一期生として入学しました。
これに先立つ1年間、柴田・菅原・佐野・山崎が理工学部教官として化学教室の創設業務にたずさわってきました。しかしながら、戦時中で海外との交流も絶えていたため、創設業務は困難を極めます。例えば、学術雑誌のパックナンバーの入手は、古書店を介し、あるいは個人や他機関の好意による寄贈などにより、ようやくChemical Abstracts (1907-1939), Journal of the Chemical Society (1878-1940), Angewandte Chemie (1888-1939), Zeitschrift für anorganische Chemie (1892-1922) 等を揃えることがでました。また単行本の原書も入手不可能であったため、当時上海で作られていた複製版を購入したこともありました。
その1年後、1943年4月には学年進行により2講座分が増設され、ついに化学科は完成しました。そして1944年4月末までに教官も次のように充足されることとなります。
研究分野 | 教授 | 助教授 | 助手 |
---|---|---|---|
分析化学 | 菅原 健 | 小穴進也 | 小山忠四郎 |
無機化学 | 山崎一雄 | 黒谷寿雄 | |
有機化学 | 江上不二夫 | 平田義正 | 毛利 駸 |
物理化学第一 | 佐野 惈 | 宮原 豊 | |
物理化学第二 | 森野米三 |
戦争の激化 -多難な時代-
しかしながら、創設当初の化学科の運営は多難な状況からはじまります。太平洋戦争の激化にともない学生の在学年数が2年半に短縮せざるを得なくなったのです。1944年9月に第一期生が卒業しました。この回の卒業生の卒業研究業績報告会は少人数であったため、物理学教室と化学教室の合同で開催されました。
1945年にはいりついに名古屋も頻繁に空襲を受けるようになりました。そこで、各研究室は長野県下の松本高等学校、上田繊維専門学校等に疎開をせざるを得ませんでした。疎開先では講義は続行でましたが研究活動はほとんど停止に等しい状況でした。このように、戦時中に創設された化学科の運営は非常に難しい状況であったのですが、幸いにして化学教室在籍者には空襲などによる犠牲者はなく、終戦後の1945年10月末には全員無事に東山に集結し、11月12日からついに講義を再開することができました。